362号 書評岩井 八重美さんの詩集『 夜を迎えに 』(編集工房ノア) 2025年12月31日刊より抜粋 ISBN978-4-89271-414-6 定価(本体2,000円+税) 短めの詩型の方だが、感覚的に言って、村野四郎系統の省略技法とはまた違うな、と感じていた。あとがきを読むと、神戸を代表する詩人、故・安水稔和さんへの追悼がある。この、情念や風景やあらゆるものを、ぎゅっと最低限の言葉数に凝縮する詩風は、安水さん譲りのものであったかと思うと、なるほどと合点がいくものがあった。もちろんそれだけでなく、岩井さん独自の詩情が料理されてある。詩が、ちょっと暗誦できてしまいそうなサイズなのも魅力だ。本詩集は、作者にとって20年ぶりの詩集となる。全37篇を所収。 作品『五月」。 片足の鳩を、そのまま障碍ある人に置き換えて読んでもよいが、私は五月というタイトルから、新入社員や新入生が、頼りなくヨタヨタと活動を始めた時期と、読んでもいいのではないかと思った。頼りなくヨタヨタと飛び始めた人たちを、川面も風も空も、支えてくれようとしている。心配しないで、みんなちゃんと見守っているよ、と言ってくれているような詩だ。 作品『夏の声』。 夏の日。日差しが強いゆえに影も濃くなる。風によって、木の梢が行きつ戻りつ、揺れ動いているのだろう。その梢がつくる、地面に落ちた影が、揺れ動く遠近によって、明滅する。そんな繊細な影の動きも感じながら、地面をゆく蟻の、せっせとした動きを、興味深く追っている。地面の蟻を、じっと見ている少女だった頃の作者。その上から、ふうわりとした衣がかけられるように、やさしい声が降りてくる。それは、今は亡き母の声なのである。作者は今きっと、あの時と同じポーズをしている。そして、あの時と同じ声が、空のかなたから降りてくるのを、じっと待っている。母を偲んでいるのだ。終行の「空から」は、今は亡き人を意味している。 作品『秋へ』。 4行目の「なんの後ろめたさかと」は、前の「後ずさりをする」にも係っているし、4行後ろの「踏み出せば」にも係っている。 あるいは太陽の位置も少し変わって、日差しの向きが微妙に変わってきてるのかもしれないが、玄関を出ようとして、日をまともに食らい、思わずたじろぐ強い日差しは、残暑のそれに間違いないだろう。反射的にたじろいでしまった行動は、決して「うしろめたさ」などではないのだが、そこでその問いをする作者が、なんだかステキだ。「なんの後ろめたさか」は、たじろいだ自分への反発の言葉だったかもしれないし、勇気をふりしぼるための掛け声だったかもしれないが、なんとか作者が外に出ると、待っていたのは金木犀の香りなのである。自然はそうやって、時々人を助けてくれている。ただ、自然を感受する力のない人は、そこに気づくことができない。 作品『バス停』。 皆がいっせいに持ち寄った時間なのだが、その時間はちょっとあくびまじりで弛緩している。そのくせ抜けられないのが、この行列なのだ。そして、確かにこの列は、バスが来ると、一掴みに異世界に送られる。3連からは「バス停」自身が主役として明確に出てくる。「番人」とはバス停のことである。そして列がなくなれば、素知らぬ顔で、周りの景色に溶け込むのもまた、バス停なのだ。 作品『駅』。 「一生のうちに何度あるだろう」の言葉には賛同したいものがある。感動を頂ける本はいくつもあるが、「ああ、これは一生の宝物だ」、とまで思える本に出会う機会は、一生に何度もない気がする。揺り動かされるというか、その場かぎりや短期間の感動でなく、この先、何年も(もしかしたら何十年も)自分に影響を与えるだろうなという感覚。その格段に違う規模の揺り動かされ方をする本には、早々出会えるものではない。やはり人生に「数冊」というレベルではないだろうか。作者は、偶然、駅で出会った人に、それを感じたのだろう。ただ、電車であり、駅という人目がある場所であるので、言葉では叫べず、派手なアクションもできず、ただ指先で、爆発しそうな思いを表現し続けている。それに気づいた作者がいるのだ。 近年、ネットで本を買うことが多くなって思うことがある。「本との、偶然の出会いが減った」。ネットで買ってると、どうしても偏る。想定内のものしか買わない。やはり、売場をぐるっと巡って、目についたものをあれこれ手に取る。立ち読みから出会う、という経験は、書店でなければと、思われてならない。 作品『日記』。 日記を書くについては、なにも構えなくていいのだと思う。それが「かすかな音に/気づいてもいいし/気づかなくてもいい」が意味するところのスタンスだと思うが、一日一日の中にはとかく、ほころびやからまりや伸びない皺があるものだ。それが解決しなくてもいい。向き合い、整理する時間を与えてくれるのもまた、日記のいいところなのではないだろうか。できることなら、「気がついたら一年が終わってた」と息をつくより、時々は自分を確認しながら進める一年でありたい。日記はそれを助けてくれるものやもしれない。 詩は、日常のはみだしものたちが、繊維で喩えられていて、愉快でもある。 作品『作法』。 たしかに、生まれてきて以来、呼吸の仕方も、眠り方も、人から教わることなく、続けている。プールの講師の言葉に新鮮さを感じたというのは、言われてみれば、の発見である。 3連の「時おりの息苦しさ」+「すっきりしない目覚め」は、年齢ゆえのものなのか、私もそうですと手を挙げたくなるが、そもそもここに問題があるがゆえに、作者は自分の呼吸法や眠りの仕方が、もしかしたら間違っているのではないか? と思えているのである。 終連、それに引き換えと、丸くなった猫の、呼吸と眠りの完璧なバランスに見惚れている作者がいる。たぶん作者は症状を言いつつも、あまり深刻には捉えていないのだろう。ここも少しのユーモアを添えて、終わっている。 作品『日差し』。 バスに、女性の車掌が乗って、切符を切っていた時代の記憶。私もぎりぎりの記憶なので、作者も小学生の頃の話ではないだろうか。こうしたバスの風景が懐かしいというだけでなく、これは作者にとっては父・母が若い頃、生前の元気だった頃の思い出が蘇ったものである。たぶん、父母とバスに乗った経験は他にもあるはずだが、この日は若い女性の車掌が尻もちをついたという、ハプニングがあったがゆえに、この日の情景だけが強い記憶となって、切り取られてあるのだろう。ハプニング後の父・母の表情まで、なんと鮮明に浮かび上がったことか。 終連は「あれはいつのこと」の言葉で、時制が現在に戻っているので、「半まどろみの幼い瞳」は作者ではなく、別人である。おそらく、あの時と同じ季節、同じ秋風の季節に、孫かひ孫を抱いていて、その瞳が、作者の過去の記憶を蘇らせるものがあったのだろう。 作品『初冬』。 後ろで、落ち葉が風に走る音がして、それが誰かが走ってくる気配と重なって、作者は何度も振り返ってしまう。 手の中に、小さな手が滑り込んでくる。その冷たさに驚きながらも、ぎゅっと握りしめると、心に灯がともった、かつての記憶。それは我が子が幼かった頃、後ろから駆けてきた音と、似ているのである。 (島) |