□ お勧めの詩集と書評 □


366号 書評

 中本 道代さんの詩集『  風に鳴る山  』(思潮社
  2026年3月31日刊より抜粋   ISBN978-4-7837-4641-6
  定価(本体2,300円+税)


 中本道代さんは、2008年に丸山豊記念現代詩賞を、2018年に萩原朔太郎賞を受賞している。拝見した感じ、とても奥深く、この人の詩を正しく理解するには、もう少し遡って読む必要があると感じたが、さしあたりは今、感じるままに読ませて頂くことにした。中本さんはこれが第九詩集になる。全31作を所収。

 作品『屋敷跡』。
 2連を見ると、

 このあたりが玄関
 このあたりが座敷
 芋の貯蔵庫だった洞穴

とあるので、この「屋敷跡」は建物自体は取り壊されているようで、庭周りのものだけが残されてあるようだ。ただし、積年の内に草木が生い茂り、森のような鬱蒼とした空間になっているようである。また、石灯籠や手水蜂があるということは、この庭は相当に広いようであり、あたりには不気味な雰囲気が漂っている。

 ひとりでここに入れば何かに掴まってしまう
 だがそれは何?

の詩行は、まさにお化け屋敷さながらである。
また、屋敷跡の隣にはコンクリートで埋められた墓地があった。それゆえ、塞がれた者たちもこちら側に漂っているようである。
この屋敷跡は「父祖の地」とのことで、作者の耳には、ご先祖らしき人の声まで聞こえてくる。柚子の木は、いまだ見つからない。

 作品『ダム湖にて』。
 凄く嫌な話をするが、3連の「若い女の骸が棄てられ」は、ダム湖に遺体を遺棄する事件が過去に何件かあったように思うので、どうしてもそれを想起させる。この表現を自殺の意に取るのは困難である。
 ダム湖の大きいものは水力発電の場合が多いが、その他にも治水・利水のために、川をせき止め、ダムが建設され、ダム湖ができる。大きいダム湖の場合は、集落が一つ、まるごと立ち退きとなり、集落まるごと水没する。集落水没は主には戦前の話が多いと思うが、1950年代までは、日本の電気は水力発電がメインであったから、そういう話もあったのである。
 この詩の舞台となるダム湖は、ダム底の道や元の谷川の流れの話にとどまっているので、治水用のダム湖かもしれない。また、比較的近年できたもののようである。また、ダム湖の上方には新しい道路ができ、その道路アクセスの良さと景観を狙ってか、ホテルや喫茶店も建った。が、商売は思うようにならず、すでに廃業しているようだ。
 そんなロケーションの地で女性の遺体が遺棄される。女は、たっぷりとした緑の水の層を彷徨い、その眼は、今は誰も見ることのできない、水底の道を辿るのだ。詩では、女はこの地の出身で、かつての童女に戻るかのように描かれている。また、この湖の精霊ともなって、廃屋の危険を知らせる存在にも描かれている。

 作品『街』。
 この詩に書かれている全てが、「ガラス壜の中の失われた街」の姿であるようだ。それは幻影のように見えるが、郷愁のようでもある。激しい現実の変化から隔離して、作者の手元で大事にしまい込むしかない街なのだろう。
 私たちが出会った街、そしていつかまた巡り合う街。懐かしい路地や裏庭。ゆるやかに傾斜する街。石畳。そして彼方の野にある墓地は、先祖代々の墓なのだろうか。死者たちは、今は使われなくなった言葉を発していたようだ。作者の胸の奥深く、ガラス壜にしまい込まれた街は、いつも時の流れから隔離された、陽だまりの中にあるようだ。

 作品『用水路』。
 岡山県は用水路の多いところで、事故が起きることもあるのだが、この詩はそこは考えなくていいと思う。初連の序盤は、子供の甲高い声、あるいは転んだ時の泣き声が、水面に響いたり、用水路沿いの草の葉を揺らしたりしている、そんな情景だろうか。初連の「九月」から以降の詩行は、蝶や子供たちや赤子など、それぞれに通り過ぎてゆくものを見ているようだ。2連冒頭に「水の眼が空を見上げている」とあるが、この「水の眼」が主人公なのかもしれない。
 そしてもう一人の主人公が「風」であろうか。嬰児の「握りこぶしに忍び込む風」は、なんと自由な風であろうか。しかし作者はこの風が怖いという。登場する林道の奥の工場。「庭」とは工場内の敷地のことであろう。そこに、放置された草が生えたり、草の実がこぼれたりしている。窓枠もすっかり錆び付いているが、窓硝子の向こうには人の貌があるようだ。用水路から見える、そんな工場の中にも、風は自由に出入りしていく。

 作品『眷属』。
 もちろん日本にオオカミはいない。1905年(明治38年)1月の奈良県東吉野村での捕獲を最後にニホンオオカミは絶滅したとされる。遠野物語の発表はそれより後の明治43年であるが、東北地方においては、前述の記録よりさらに前に絶滅していたにちがいなく、この詩は遠野物語におけるオオカミの伝承の姿をベースとして紡がれていると思われるが、注目すべきは、今もオオカミを災厄からの守り神として、護符にする風習のある地域が残っていることで、古来よりオオカミを山の神として祀る風習があるように、オオカミと人間との関係性は、思いのほか深いのではないのではないだろうか。もっと言えば、オオカミと人間は近いのではないだろうか、という視点が作者にはある。オオカミはいなくなっても、オオカミの血筋はわれわれの中に引き継がれて、潜かに息づいているのではないか、あるいは信仰という形で心の一部を占めているのではないか、そんな関係性の深さから、人間をオオカミの「眷属」と、作者は呼びたいのではないだろうか。

 作品『荒野』。
 この詩の初連に関しては、自然界において非常にありうる話を書かれていると感じる。「三時間」という具体的な時間もさることながら、なにか事実あったことに基づいて書いていると見ていいかもしれない。ヘビはその頭の大きさの何倍もの大きさのものを丸呑みにする。6~7mあるニシキヘビであれば、少々の大きさのものでも平気で呑み込むだろうから、豹の仔が犠牲になるのはありうる話だ。気になるのはそのあとだと思うが、実は家猫でも死んだ仔を食べることがあるので、豹がそれをするのは、全く不思議ではない。舐めて舐めて、それでも息が戻らないとわかると、食べてしまうことがある。それは意識の欠如や貪欲ということではない。まるで仔を助けるためであるかのように食べる。それはまるでもう一度産み直そうとしてるがごとくに、お腹に戻すのである。人間の知恵では計り知れないことを動物はする。
 「言葉を使うものは行くことができない道」が獣にはある。その道を、豹は走って行く。

 作品『樹木たち』。
 この詩は、広島原爆から生き残った、被爆樹を描いている。登場するイチョウ、クスノキ、プラタナス、シダレヤナギ、いずれもそうで、現存している。とりわけプラタナスは大きくえぐれていて、当時の傷痕が生々しい。戦後に場所を移動して植え替えられた時に、樹の向きが逆になったらしいという話で、本当は、傷痕の穴は爆心地の方角を向いて空いていたそうだ(現在は逆向き)。
 詩を読んでいて気がついただろうか。この詩に登場する「私たち」とは、原爆で死んだ子供たちなのだ。だから、声もあげずにイチョウの樹の下に集まって騒ぐ。佳い匂いのするクスノキの枝の上で騒ぐ。プラタナスの暗い洞にどこまでも入っていける。学校の校庭で今の子供たちが歓声をあげる時、「私たち」の声は重なることがある。シダレヤナギが撓み、覗き込む川の水面には、「私たち」の顔が映っている。きっと、見える人には見える。



                                   (島)